木のスプーンへの想い・・・

木製食器は、創設者の1本の木のスプーンに対する探究心からスタートしました。

1980年頃の出来事です。旅先で購入した樹脂製のカレー用スプーンを使ったとき、子どもたちが楽しそうに美味しく食べた笑顔が忘れらなかった創業者は、「これが木だったらもっといいはず・・・」と思い始めました。金属製のカトラリーの持つ独特な感触や食べ心地ではなく、やわらかく滑らかな自然の使い心地。木のスプーンは、より一層使う人の気持ちをより明るく感じさせることができる。その木のスプーンの実現を信じて、開発を続けてきました。

弊社では木のスプーン・木製食器を食事に使っていただくことで、使う人笑顔や楽しい会話が増えてより一層の団欒を生み出すものという創設者の想いを受け継ぎ、より良い製品作りとその普及に向けて日々研鑽を重ねてまいります。

創業者 平田是賢が木のスプーンを作り始めた理由

『籐家具、そして木のスプーンへ』

日本のパートナー企業を受け皿にして籐の原材料をインドネシアで植林するため、国際協力機構JICAへその支援を要請する。先ずは申請するべき法人が必要だった。生物学のフィールドワークを行うためにインドネシアへ数年前から訪れていた、創設者の平田是賢は、1977年に有限会社籐芸を地元の三重県桑名市に法務登記し、籐家具の原材料の輸出を手掛け始めた。平田は籐家具の、その自然素材を使った手作りでありながら使い心地の良い魅力を感じ、自分でもインドネシア語を独学で学び、籐家具の作り方も身に付けていた。籐の原材料の輸出は日本での籐家具職人の技術を守るためにも非常に重要であったが、日本のパートナー企業が経営破綻に追い込まれ敢え無く頓挫となっていた。それでも自らインドネシアのスマトラ、チレボン、バンドンで、インドネシアの友人たちの協力を得て、田んぼや木々に囲まれた小さな村に小さな工場を立ててもらい、村の人たちに籐家具製作の技術指導を行いながら日本へ少しずつ籐家具を輸出しては、販売をしていた。

平田の当時住んでいた三重県桑名市は古い町で、100年ほどの歴史を持つ小学校がいくつも細かく地区に分かれて存在していた。平田は小学生になる自分の子供たちや、地元の小中学生らのために自宅近くの義父の空き地を借りて小さな学習塾をひらいた。もともと教鞭を執っていた平田が塾長となり幾名か学科を教えられる者を誘い1980年に学習塾を始業した。その名を「籐芸塾」とし、小中高の5教科を受け持ち、たちまち最大150人の生徒が通うほどの人気の学習塾として地元では有名になった。その学習塾と同じ敷地内に、インドネシアで作った籐家具や、バリやジャワの民芸品など雑貨を置く小屋の様な小さな店も立てた。

1984年インドネシア政府は自国の産業の保護のため原材料としての籐の輸出を禁止。同時に籐家具市場は減退していった。平田はこのころから、インドネシアで培った中古機械設備の調達や現地の従業員への指導などの経験を活かして、インドネシア語の通訳や小規模の製造企業のインドネシア進出のサポートや相談を受けるなどしていった。木材資源の豊富なインドネシアで中小企業の立ち上げのサポートをするうちに、平田は自らが自然素材の生活用品の創出にのめり込んでいくこととなった。家族旅行で訪れた輪島で購入した樹脂製のカレースプーン。食べ心地が良くカレーが美味しいと嬉々としている子供たちの笑顔を見て、これを木で作ることが出来ないかと考えた。自然素材で出来た安心安全のスプーンであれば、もっと家族の笑顔が増えるのではないか。逸品物でない誰にとっても買いやすい価格で、毎日使えるような耐久性のあるものであれば、きっと多くの家庭で喜んでもらえるはず。この思いが木のスプーン専門メーカーとなる礎となったのである。

1980年代に入ったころだった。知り得る限り、木のスプーンを量産している工場など、聞いたこともなければ、存在すらしていなかった。木工産地の作家が手彫りで一つ一つ仕上げるような工芸品ではなく、ごく一般的な家庭でも買えて、毎日使えるような木のスプーンでないと意味がない。当初は木材加工の初心者でしかなかった創業者平田是賢は、その信念でいくつかの近隣の木工業者へ声を掛け、どうすれば理想の木のスプーンが作れるのかを相談して回った。その想いに親身になって協力してくれた地元で運営する工房の経営者は、県外の技術士を紹介などしてくれた。

平田は教鞭を取っていた経験を活かし学習塾で生計を繋げながら、裏庭に建てた小屋で小さなバンドソーとベルトサンダーを駆使して木を切削し、取り寄せたオイルや塗料を調べては購入し、理想とする木のスプーンの試作を続けた。1994年にはバリ島タバナン県の、舗装もされていないような道の続く山の中腹にある村で、中古の発電機とブロック塀で建てられた小さな工房を始めることとなった。籐芸初の生産拠点であるCV. MATSURIKA BALIの誕生だった。インドネシアの木材で、インドネシアの青年たちと一緒に木のスプーンを作って日本の市場に挑戦したい。そこには、自分の夢の実現をかけてみたい想いと同時に、お世話になったインドネシアという国に、何か恩返しがしたいという想いがあった。バリ島の地元ビジネスパートナーの手筈も得て村の人たちに声を掛けると、若者たちが集まってくれた。その頃には次男(次期社長)の淳が東京での勤務から実家へ戻りこの新規事業への参画を申し出てくれ、さっそくバリ島の工場長として着任した。村の若者たち総出で木のスプーンを、失敗を重ねながらも品質を徐々に上げながら作っていった。ニワトリや家畜が走り回り、ヤシやバナナの木を灼熱の太陽が照らし続ける。木のスプーン作りに情熱を傾け、平田は自らが日本でも営業を行い、いよいよ売り上げを伸ばしていこうとしていた。木のスプーンの良さが日本の市場でも認められていく実感があった。

努力が実り始めたそんな時期、同時に悪いことも起こった。バリ島のパートナーが登記上の権力を行使して、すべての資産と技術を牛耳ろうと不穏な動きを見せ始めた。投資した土地代金や資金を悪用され、育てた若手工員たちも逆らえずに工場をやめるほかなかった。後々、裏で手を引いた日本人技術士の裏切り行為も発覚した。平田たちはこの難を逃れるため、そして日本の顧客と起業時の理念の実現を守るべく、隣のジャワ島にあるインドネシアの産業都市スラバヤの郊外に、外資100%で新たな工場建設を密かに進めた。
こうして2000年に設立されたのが、籐芸の完全子会社であるPT. LEEF ESENS FLORAである。

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